第四編 自治時代

第十三章 最近の村情


 大正9年(1920)春、日野常三郎が県会議員となる。前県会議員の山本福太郎が死亡したため、その補欠選挙が行われ、当選したものである。本村は、さきに衆議院議員を出し、今回は県会議員を出して、村の名声をあげた。ところがこの人は、大正10年秋になくなった。

 大正14年(1925)4月、伊藤蔵重が村長に就任した。これよりさき、郡制が廃止され、郡会議員も郡設の学校もなくなった。郡設の学校はすべて県に移管された。また、明治29年(1896)4月1日、出雲・楯縫・神門の3郡が合併して簸川郡(ひのかわぐん)となり、郡の事業も次第に多くなったが、大正15年7月をもって郡役所も廃止になった。実に、今市の郡役所は明治12年(1879)から48年間あったことになる。これから各村は県と直接に事務の交渉をすることになる。ただ今市には各種団体の郡事務所があるだけとなった。

 昭和4、5年からにわかに不景気となった。昭和7年(1932)に役場が新築され、各所に道路も作られた。この道路は、国費・県費や村費をもって工事を行うものである。政府は不況救済策として、市町村に道路工事を起こした。1つには労銀を与え、1つには産業の発展に役立てるためである。これは継続事業として行われ、昭和7、8年度の道路は左の4線があるが、たいていは旧小道を利用している。

   ○東分麓谷公会堂前から西南に向かい岩坪谷出口まで
   ○西分郵便局脇から鉄道踏切りまで
   ○崎原から小浜一畑薬師灯籠まで
   ○大島葦場堤から引舟に出て、原から佐伯神社まで

 大正7年(1918)、片岡農商務省技師は神西湖を視察して干拓事業(所説の記載は略す)など説いているが、神西湖が水産と風景で名高いことは動かないところである。助役江角金太郎は、神西湖を宣伝する小唄を昨日作ったが、一方では盆踊りも指導している。この宣伝小唄の題名は「神西小唄」としてあるが、歌詞は神西湖を讃美したものである。

 正久寺跡に公園が出来たのは以前のことであるが、神西湖の中にある大島に弁財天宮を作って、年々夏祭りをすることにしたのは昨年である。神西湖を陸上からながめて楽しむのによい場所は、正久寺公園と差海蛇島の御上覧場とである。また県はこれを飛行機の着水場として注目している。本年7月の初め、海軍機が濃霧に悩まされ、不時着水したことがあった

 昭和2年(1927)4月、現村長日野愛一が就仕した。このころから世上は一般に経済界の不況にあえいでいた。しかもそうした中で、いろいろな工事が行われた。いずれもやむをえない事情があったからである。今は巡査駐在所の新築にとりかかっている。

 本年4月3日、東京宮城前において全国小学校教員の御親閲が行われた。現学校長の福間益一が上京し、代表として御親閲を受けて帰った。

[表 紙]  [目 次]  [前ページ]  [次ページ]
inserted by FC2 system