第四編 自治時代

第十一章 信用組合・農会


 明治43年(1910)の秋、神西村信用組合が組織された。株数は1千百余りであった。ところが、大正13年(1824)、数万円が費消されていることが暴露した。役員が一部を弁償してようやく預金元金の半額を返済したが、遂に組合は解散しなければならないことになった。

 昭和7年(1932)に再び信用組合が組織された。今回は、信用・購買・販売・利用組合とした。今回のものは口数(株数)が5百余りであった。初期のことであるから経営上いろいろ苦心があった。

 銀行の支店は西分の町にあった。後、沖分引舟にその出張所が設けられたが、やがてこの出張所は廃止され、西分のものが、松江銀行西浜支店神西出張所ということになった。

 明治39年(1906)1月、今の農会が組織された。これから農事は急速に進歩し、30年からは高畦(たかうね)式田打ちが行われ、紫雲英(れんげ)の播種(はしゅ)が多くなった。しかし、いつしか紫雲英を作ることは高畦田の関係から少なくなり、苜蓿(もくしゅく)がこれに代わるようになった。これとともに、年々人造肥料の使用も増加する傾向を示してきた。大正になると、集落農会も活動するようになった。

 また、養蚕の好況につれ、大正7、8年頃から稲田を桑園にするものが増加した。そして、収繭量の増加とともに、養蚕業者で製糸業者と特約を結ぶ組合もつくられた。一方では繭市場も設けられた。こうした桑園の増加とともに購入肥料が非常に多くなった。しかし、近年は繭価が下落して、肥料資金も思うように行かない。一昨年、信用購買販売利用組合が早くも成立したのは、1つにはこの肥料の購入に便益があると考えたからであった。農会と組合の活躍は今後大いに期待される。

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