第四編 自治時代
第十章 小学校
沖分にある尋常高等小学校の校長は、原忠之助の後、明治34年4月板倉周作に、同37年4月寺本国市に、大正7年12月今岡栄に、同9年4月三上和次郎に、同15年4月福間益市にと5代を経て現在に至っている。学級数も、明治34年6学級、同40年7学級、同42年8学級、大正2年7学級、同4年8学級、同11年9学級、昭和3年10学級、同5年11学級へと増加している。
東分にあった小学校は、明治7年5月から代宮屋を仮りに使用していたが、同14年8月に字(あざ)山辺に新築して移転し、同30年8月堂ケ原の新校舎に移った。校下は東分と西分で、尋常科だけである。明治34年には2学級で、校長は山邊嘉太郎であった。同37年3月3学級であったが、この月沖分小学校に合併し、東分小学校は廃校となった。
沖分の小学校は2階建てのものが転(ころ)びを生じたため助(すけ)木を添えている上に、狭くもなってきた。そこでさらに平屋の校舎を新築した。1部2階建てのものがあるが、それは東分の校舎を移したものである。明治42年に工事が完成し、落成式は翌43年3月であった。奉蔵庫は大正4年の建築である。
この頃すでに実業補習学校が設けられていた。補習学校の男子生徒は主として夜学で、女子は昼間の授業であった。大正15年に新たに青年訓練所が開設され、小学校はいよいよ多忙となる。
昭和3年小学校に一棟を増築した。青年訓練所と実業補習学校とが同居しているため、不便や重複を感じる点もあったが、本年(昭和9年)から実業公民学校と改称することになり、大いに便利になった。
現在の生徒数は次のとおりである。
尋常科 398名 高等科84名 計482名
公民学校男子 86名 女子 15名 計101名
青年訓練所生徒 50名
[表 紙]
[目 次]
[前ページ]
[次ページ]