第四編 自治時代

第九章 村植林


昔から神西村・西浜村(差海・板津)・園村・江南村(三部・常楽寺)4か村の入会(いりあい)1野山(のさん)があり、これを分割して造林する計画もあったが、実現は容易ではなかった。ついに大正2年に分割が成り、造林を始めることになった。4村の割り前は、2山札などの関係から、神西村百町5反、西浜村41町1反、江南村52町5反、園村42町7反、となった。神西村の百町5反弱を字(あざ)で分けると、石木峠35町1反、上沼津10町6反、下薮地14町1反、岩坪40町6反である。後の測量の結果では110町あった。

 この造林については、助役伊藤蔵重の功績が多大なものであったことを知らねばならない。同氏は次のような表彰状をもらっているが、この表彰文以上の造林功労者である。

     神 西 村 助 役
                    伊 藤 蔵 重

  町村制実施ノ際書記二選任セラレ累進シテ今日二至ル 在職実二29年其ノ間忠実職務二服シ殊ニ明治42年5月現職二就クヤ克(よ)ク村長ヲ補佐シ最モ力(ちから)ヲ有林野ノ統一整理二致シ其ノ功労著シトス依テ金拾五圓ヲ贈与シ茲(ここ)二之ヲ表彰ス

         大正8年2月11日
      島根県簸川郡長正六位勲五等藤脇善政

 現在では杉林が約1町歩で、他は松林と雑木林とが約7対3の割合になっている。雑木林は、最初の設計にはなかった。植えた苗を雑木の芽が押し倒して、自然に雑木林になったものである。発育の早いものでは、松・杉とも周りが3尺のものがある。伊藤翁はその苦心を次のように語っている。

 いよいよ分割することに相談は決まったけれど、各村がいずれも欲にかかって、分割することができなくなった。ついに郡長に一任することにした。郡は土質、便利の具合を各村とも恰好(かっこう)に分割してくれた。さらにまた一苦心がおこった。各大字が山札等の関係で負担上区有財産の整理をする必要もあった。野山でない谷地を買収せねばならぬ箇所もあった。植林した当分は、幼樹のこととて、保護が必要である。しかるにその地は多年鎌入れ勝手の所であったという人々の観念が消えかねる。双手を拡げて幼樹を保護育成するという考えは、今日まで終始一貫の信念である。自分の死後、伐採の節、あるいは沙汰してもらえるかどうか。

 この造林は、年百円ぐらいの経費で手入れをしている。昨年(昭和8年)この雑木の一部を払い下げて、6百円の収入があった。

 【注】1野山=「野散(のざん)」官の管理外の山野、無税の開墾地 2山札=集落の共有林

[表 紙]  [目 次]  [前ページ]  [次ページ]
inserted by FC2 system