第四編 自治時代

第七章 修養諸会


 日露戦争の直後、芳川内務大臣は、国をあげて精神修養に努める必要があることを力説した。明治38年(1905)末から39年春にかけて、郡内でも青年会の組織がつくられた。42年には湖北に青年会がつくられたが、同43年には、村内の7か所で青年会がつくられた。43年12月、この8青年会をもって村青年会を組織した。創生当時の青年会は精神修養を主な目的としていた。明治45年2月25日に、小浜部会は3等賞を、大正3年2月1日には神西村青年会が3等賞をいずれも簸川郡青年会から受け、表彰された。その後会員の年齢が低下し、指導者も乏しく、会の勢いは衰えた。近ごろは河南部、郡・県の青年団が体育競技を行うので、青年団事業もこれに偏ってきたように思われる。

 青年団につづいて、各地に戸主会の結成が始まった。しかしこれは、昔から続いていた「組寄り」にすぎなかった。義務貯金や金融講のようにして貯金をしている集落もあったが、たいていは年に一度の新年宴会を行う程度の形式だけの戸主会であった。この中で、西分の九景戸主会は20年来一頭地を抜いていて、一糸乱れない真の戸主会であり、大いに模範とすべきものであった。

 小学校教諭松下カズが首唱者となって、婦人会、処女会が創立され、いよいよ発展に向かおうとしていた時、どうしたことからか、両会を合併して「婦女会」とすることに改められた。目的の異なる2つの会が1つになってはうまく成長発展するはずがない。変則的な会は最近解体して、また2つの会になった。2つの会にはなったけれど、その発展はたいそう気づかわれるところである。

 昭和7年(1932)斎藤内閣は各村に、「社会教育委員」を作らせた。本村のそれがどのような活動をしたのか、一般には認められない。本村の修養団体は今後大いに努力しなければならない状況にある。

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