第四編 自治時代

第六章 通信と交通


 明治40年(1907)3月、神西郵便局が初めて出来た。局の事務は、大上屋の宅内門脇で執った。無集配局だったからこれでよかっが、後に西分の町に移した。大正11年(1922)12月から電信・電話を取り扱うようになった。これより先、明治42年3月に集配局となり、区域は神西・知井宮・江南・西浜の4村である。局はこの集配区域の中央にあたり、江南駅にも近くて、適当な位置であった。昭和4年(1929)12月から、現在の新築した所で局の仕事をするようになった。

 国道の開通は、交通と運輸の量を促進した。貨物を送るのは、牛馬によっていたのをやめて、荷車に積むようになった。旅行者は人力車に乗るようになり、国道沿いには各所に人力車業を営むものがいた。明治40年頃(1907)から乗合馬車も出現した。人力車より料金が安いので、これに乗るものが多くなった。このようにして、国道沿いには、菓子・草履(ぞうり)・鞋(わらじ)・飲食物など、旅行者相手の店が多かったが、鉄道が開通するようになると、運輸業も商店も大きな打撃を受けた。

 明治45年(1912)春、今市以西の鉄道工事が始まり、大正2年11月20日に、今市駅小田駅間が開通した。国道はにわかにさぴしくなったが、近距離の貨物輸送は、荷車から荷馬車の方へ移った。荷車は自家用のものが主になったようにみえる。

 昭和2年(1927)には貨物自動車の往来が多くなった。この頃から年々、貨物・乗用自動車が増加していった。昭和5年頃から大社・江南駅乗合自動車、6年頃から西浜・知井宮間乗合自動車が本村を通過することになった。一時衰えていた自転車も、大正7、8年頃からにわかに増加して、現在では各戸にほとんど所有されている。しかし、自動車の通行が頻繁になるにしたがって、道路の破損もまた多くなった。

[表 紙]  [目 次]  [前ページ]  [次ページ]
inserted by FC2 system