第四編 自治時代

第五章 東宮行啓


 明治40年(1907)5月、大正天皇がまだ東宮(皇太子殿下)の時、山陰道へ行啓なさった。5月26日松江を御出発、今市町の遠藤邸におはいりになった。27日には出雲大社に御参拝になり、28日今市を御出発、石見路におはいりになった。27日中山東宮大夫(だいぶ)より次のような通達があった。

 皇太子殿下明28日午前8時30分今市御旅館御出門、左ノ箇所御休憩ノ上、午後5時大田町御旅館御着ノ事二御治定為(な)サレ候条、コノ段通達二及ビ候ナリ

  藤川郡知井宮村御野立        御小憩
  同 郡江南村二部尋常高等小学校   御小憩
  同 郡田岐村大字小田御駐車ノ儘   御小憩
  正午 同郡田儀村尋常高等小学校御着 御昼餐
  午後2時 同所 御発
  安濃郡朝山村仙山峠二テ御駐車ノ儘  御小憩
  同 郡波根西村尋常高等小学校 御小憩

 午前9時35分知井宮村御野立所を御出発になり、いよいよ本村へおはいりになる。国道左側には村内一般の者が、各団体は木札をたて、礼服で威儀を正して整列した。まるで水をうったような静けさである。鹵簿(ろぼ)(行列)の順序は、警部、騎馬警視、約1丁をへだてて駄馬憲兵、近衛騎兵数人・東宮御馬事、近衛騎兵数人、その後ろは東宮附大官の馬車2輌、知事馬車、近衛騎兵2人、騎馬憲兵の順である。この後に続くのは腕車(わんしゃ)(人力車)で、東郷大将、副官、村山少将、副官、東宮附高等官、古賀警保局長、東宮職判任官、以下県内高等官、次は随意の随従者で、3、4町の列が続く。殿下は各団体ごとに挙手の礼を下さって、一同感涙にむせんだ。

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