第四編 自治時代

第四章 神西村成立


 明治22年(1889)6月(法の上からは4月)、新町村制の実施によって、東分・西分・沖分・大島の4村が「神西村」という1村にまとまり、前記の4村はそれぞれ「大字」となった。そして、これまでの戸長を廃して「村長」とすることになった。こうして伊藤喜久右衛門が初代村長に就任したが、この年12月、小村藤三郎がかわって村長に就任した。この改正町村制実施が実際の自治時代の幕明けとなった。戸長時代はこの自治時代への道程−過渡期であったといえる。それは自治というよりは官治に近かった。しかし、前記4か村はそれぞれ財産をもっているので、「区制」というものはなお重要な意味をもっていた。

 明治23年(1890)沖分の小学校校舎を山地(現在の校地)に新築したが、2階造りのものであった。翌年3月末児童はこの校舎に移転した。25年12月、伊藤啓一郎が校長に任ぜられ、翌々年の27年4月からは高等科を併設して、尋常高等小学校となった。この高等科へは、乙立村、知井宮村、園村、西浜村、江南村などから通学する者もいた。数年の後、他村の者は他の組合学校へ転校して、その数は大いに減少した。28年度の学級数は、尋常科2個学級、高等科2個学級であった。27年10月は、日野健次郎が村長に就任した。翌28年8月伊藤善三郎が村長となり、29年4月には古志村の人神田精一を村長とした。

 この年の2月、伊藤啓一郎が小学校長を辞任したので、3月に原忠之助が校長に就任した。

 明治31年3月、衆議院議員総選挙が行われることになり、簸川郡選挙区から伊藤啓一郎が立候補した。しかしもう1人候補者(平田の石橋か出東の江角か、確かなことはわからない)があって、競争はきわめて激しかったが、遂に伊藤啓一郎が当選した。実に、本村から帝国議会へ議員を出したことは空前のことである。5月臨時議会に出席したけれど、不幸にも解散となった。党派は何派であったか不明であるが、在京中に品川弥二郎邸をしばしば訪問したということである。

 明治33年(1900)春、東分須美屋脇から大島に至る道が新しくつけられた。もともとこの道路はあったが、曲折が多く、幅員も狭いものであった。その曲りを少なくして幅を広くし、路面も高くした。これがいわゆる大社道である。

 34、5年、役場を現在の地、駐在所前に新築した。それまで長い間山地にある小学校の1階西側を役場としていたが、学校も学級数が増加してきたこともあり、役場を別に建てることになったのである。40年3月伊藤善三郎が再び村長となり、42年4月には小村弥蔵が村長となった。

 日露戦争までは、国家的にいえば軍備拡張の時代であり、増税時代でもあった。しかし戦争後は、人心にも緩みが生じてきた。この人心を緊張させるためには、各団体において、内面的な向上が要求された。こういうとき戌申(ぼしん)詔書が発せられたのである。

 本史も、これまでは編年体の記述をしてきたが、これからは事項別に章を設けることにする。

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