第四編 自治時代

第三章 合同役場


 明治17年(1884)再び戸長役場の異動があって、3戸長役場が合同して、「大島外4村戸長役場」ということになった。この年、高松村の人竹田門太郎が戸長に就任した。合同の際であるし、戸長の選出に困難な事情があったようである。この年村会議員を初めて選出することになった。

 この17年、5か村組合立の小学校は、本校が沖分原にあって、分校が大島と東分にあった。19年5月に大島の分校は沖分の本校に合併したから、学校は3校から2校に減った。また、18年から3郡会議員も選出することになった。

 明治17年には、国道工事が始まった。山陰道縦貫線であるから長期にわたるものであった。これが完成して、山口県長門まで開通したのは明治20年であった。これからこの国道に沿って人家が建つようになったが、その多くは商家と交通関係業者である。

 明治20年ごろから22年の春までに土地の実地調査が行われた。この調査のもとになった地図・字名・番地は後まで動かない貴重なものになった。字名は、藩時代の輪名そのままのものもあり、あるいはそれに添加したものもある。左にこの字名をかかげる。字名によって、古い昔の地形や集落発達の様子を想像させるものがあるからである。( )内はひどく訛ったものである。

【東 分】
 崎原、沖田(おきだ)、川尻(かわじり)、羽根坂(はねさか)、辛木原(からきはら)(かなぎわ)、西丁ノ内(にしちょうのうち)、丁ノ内、古屋垣地(ふるやがいち)、蜂巣(はちのす)、浜居場(はまいば)、御崎谷(みさきだに)、井ノ内、番抜(ばんぬき)、岩宿谷(いわじゅくだに)、岩宿、長迫(ながさこ)、鋤崎(すきざき)、大迫(おおさこ)、土町、麓、空ノ垣地(そらのがいち)、岩坪、光成(みつなり)、仲田(なかだ)、仲村、田原、宮谷、室谷(むろだに)、地柄(ちがら)、中澤(なかざわ)、見々江沖(みみえおき)、鋳物洲(いものす)、宮後、神待、室前、山辺、榎崎(えのざき)、鋳物屋(いものや)、堂ケ原(どうがはら)、栗木(くりき)、高岩、見々江、御内垣地(みちがいち) (以上43)

【西 分】
 市場、坂本、東猿喰(ひがしさぶらん)、馬が谷(うまがや)、大歳谷(おおとしだに)、下薮地(しもやぶち)、薮地、石木峠、上沼津、猿喰、流田(ながれだ)、西代(にしだい)、今井、田中、鳥目、九景、浜田、嶋崎、小和田、川尻 (以上20)

【沖 分】
 前田、内沢(うちざわ)、柳原(やなぎはら)、山地、十間川内、小浜、葭島(よしじま)、六反、免別(めんべつ)、原、外沢(そとざわ)、蛇島、湖  (以上13)

【大 島】
 下井手、横浜、明善(みょうぜん)、新本田、石新田、砂山、神揚(かみあげ)、川内、古川 (以上9)



 明治20年(1887)3月、小村藤三郎が戸長となる。明治22年6月を期して改正町村制を実施することとなり、村名をまず決めねばならなかった。編成する村は、東・西・沖・大島の4村である。「神島村」と名づけるのがよいという少数意見もあったが、大多数は「神西村」とするのがよいということで、ついに神西村と決定した。昔は滑狭郷といっていて、後には久しく「神西」という名があった。この名が今日の村名として残ったことは、歴史上きわめて意義のあることである。

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