第四編 自治時代

第一章 戸長役場


 明治元年(1868)になっても、大名はもとのままでいたが、藩主は「藩知事」と名を変えた。その下の役人もまたもとのままの「家中」であったから、地方の者は、朝廷と幕府の違いもわからなかった。

 明治3年(1870)に藩制改革があって、大参事・権(ごん)大参事・少参事・権少参事などの官が置かれたけれども、これらは皆旧家老や家老なみの人々であった。藩知事は早朝にひとり乗馬で佐陀詣(まい)りをして帰り、政務についたが、人々の間で「近いうちに殿様のお国替えがある」という噂(うわさ)が伝わり、なんとなくざわざわした風(ふう)に感じられた。

 明治4年7月、前藩主(藩知事)が版籍(土地と人民)を奉還したので、田舎の維新は事実上ここから始まった。7月13日までは「松江藩神門郡某村」としていたものが、14日からは「松江県某郡某村」と変わった。それからわずか5か月たった11月15日から「島根県」となって今日に至っている。旧藩主は東京に移住し、松江には「県令(今の県知事)」が来て治めることになった。

 明治5年3月、太政官布告で、庄屋、年寄を廃止して「戸長」と改称することになった。庄屋が戸長に名を変えたまでであるから、役場も別に建てない。庄屋時代に、庄屋、年寄などが集会したり、事務を執ったりした民家があって、そこを「役所」と言っていた。戸長の下には「用係」があった。そしてこれから7年間は、「区」称を用いたようである。これは町や村に番号をつけたくらいのもので、村名を変えたわけではない。つまり、「第何大区何小区」というふうに呼ぶのである。学校の方は「何大学区(地理でいう地方に近い範囲)」「何中学区」(県)「何小学区」(村)というふうにとなえた。

 明治5年の学制頒布の当時には沖分字蛇島に寺小屋私塾があった。これは普通の寺小屋と違ってやや学校らしい塾であった。教師は神田蔵太郎・山本堅助で生徒は4、50人いた。この塾が改制により「学校」となった。しかし、各町村がすぐに学校を創立したのではなかった。まず、「組合学校」をつくった。金本鹿之助の記憶談として次のようなことが残っている。

 明治6年5月、元神門郡今市町・杵築町・神西村・元出雲郡直江村・元楯縫(たてぬい)郡平田町に設置し、校舎は多く寺院を仮りに借用した。今市町大念寺、杵築(きづき)町誓願寺、神西村胎泉寺、平田町元郡屋や、直江村は記憶していない。

 これよりさき、明治4年2月には新紙幣の発行があった。この頃から、それまで使っていた「貫・文」をやめて、「円・銭・厘」と呼ぶようになった。租税も米穀で納めるのをやめて金銭とすることになった。しかし、土地に地価を定め、地価の100分の2.5ぐらいを地租とした。昔の何石何斗の代わりとして納めるのだから、地租のことを「石代」としばらくは言っていた。この時に納税額が非常に減少したので、農民はたいそう喜んだ。そこで、余力のある農家ではにわかに倉庫(くら)を建て始めた。また一般に、自分の家で酒を造ることも始めて、飲酒が盛んになった。

 この頃に、「四民平等」となって、階級制度はなくなった。そして、苗字(みょうじ)のないものは苗字を必ず用いることになり、戸籍は戸長の所管となった。また、「廃刀令」「断髪令」が下って、だれも大小の刀を腰にさすことがなくなった。男子は髪を結うことを禁じられ、にわかに鋏(はさみ)で髪を斬り落としたりした。これまで、ながらく結髪してきた大和男子が西洋に倣(なら)って丸坊主になることだからだれも惜しがったことだった。

 同5年11月に「太陽暦」を用いるようにという政令が下ったとき、既に6年の暦は発行されていたので、明治6年は事実上新旧両暦を併用することになった。

 明治5年にはまた社寺の厳密な調査が行われ、無資格の社寺は廃止と決まった。そこで、長雲庵・牛欄寺・吉祥寺・地福寺・正久寺・高福寺・妙音寺は廃寺となり十楽寺へ合併になった。この年にはまた大地震があって、家屋に大きな損害を受けた。震源地は浜田沖であったため、今もこれを「浜田地震」と呼んでいる。徴兵令、郵便令も出たけれど、田舎にはなにら影響はなかった。

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