第三編 藩政時代

第十一章 神西湖と交通


 文化3年(1806)の神西湖の周囲は11里23町であったが、その後次第に埋もれてはいる。藩政時代に差海川の切貫きを行って以来、神西湖はたいそう有名になってきた。このように有名になったのは、湖の名産と湖水の風景の美しさによってである。「雲陽大数誌」に名産十種をあげているが、そのうちにも神西湖の産物が出ている。その十種の名産というのは、

十六島海苔(うっぷるいのり)・眞梨子・大庭梨子・艫島鰤(ろじまぶり)(以上献上品)、渡橋加儀茶・日御碕和布(わかめ)・神西湖鯉(こい)・鮒(ふな)・平田蕪(かぶ)・万田松茸(まつたけ)・出西生姜(しょうが)

であるが、これらはいずれもたくさんとれるためでなく、美味のものとして有名であった。

 また、「神西湖八景」も有名であった。琵琶湖の近江八景にならって名づけられたものである。その八景というのは、田中山の清嵐・正久寺(九景)の晩鐘・鵜来(弁天島)の秋月・掛前(山地)の帰帆・蛇島の暮雪・差海の夕照・水原(二部)の落雁・椎崎の夜雨である。これに神西城主であった小野氏の手植えであるという「小野が松一(小野木が松に訛る)を加えて九景という場合もある。2、3の古書には、「湖上の神西城」としている。その城址も龍王山というほどに湖に縁がある。現在は「夜涼み船」で有名であるが、晩春または仲秋のころ、舟を浮かべて湖水の風光を味わうのもなかなか風情のあるものである。そのときは「二っ丸」「神西城址」をも景中のものとしなければならないだろう。

 神西湖があるために交通路は湖南と湖北の2つになった。下古志の「大門」の西に「一里塚松」があった。そこから知井宮の和粟屋前、氏神前を通って「鏡田(かがんで)」に到る。十間川の土橋を渡って東分用水川の堤防を下る。丁内山の北裾(すそ)から岩宿谷尻に出る。そしてまた用水川の堤防を下る。八幡宮山の西北にあたる所から神待にわたっていく。堂ケ原を通って、今の国道(現県道)傍の砂利入れ場の北へさしかかる。そこに「一里塚松」があったが、今は1本しかない。坂を越えて市場へ出ると、姉谷の西部に「一里塚松」があった。この路線が湖南の幹線道路であった。

 下古志の「一里塚松」の東から道は二つに分かれる。北の道は阿弥陀寺前から知井宮沖、大島、引舟原に来ると、「原」にまた「一里塚松」があった。これからは西浜を通り、久村で湖南の道と出会うことになる。湖北の道は湖南の道にくらべると、坂も少なく道路も広かったので、こちらが主要道路であった。藩主が時々神西湖を遊覧する場合は、蛇島(差海分)の松原に幔幕を張りめぐらした。その松原を御所覧場(あるいは御上覧場)と呼んでいる。

 原・蛇島は松林のある砂地であったが、道路がついてからは西部海岸地を控えてにわかに繁盛するようになった。諸寺の移転もあって、昔とはかなり趣の違った所となった。幕末の長州征伐のころ、藩は農兵を募集したが、胎泉寺はこれら農兵の調練所ともなった。なお、境橋は個人で架けたもので、ここを通る人から橋賃を取ることにしていた。

 西分の西代から窪田や山口ヘ分かれて行く道があり、ここも繁盛の基になっていた。

 波加佐神社は、『出雲風土記』にある「波加佐社」であるという。もとは現在地より東南数十歩の田の中にあった。そのため「田中明神」と言われている。

 先にもふれたが神西庄から神西村となり、神西沖村が分かれた。後に、本所の神西村がまた2つに分かれて、東神西村と西神西村とになった。そして、昔不毛地帯であった所にも次第に経済力が蓄えられるようになってきた。2「滄桑の変」とも言うような変化は、この4村(後の神西村)にもよく現れていると言うべきであろう。

  【注】1一里=36町で、約4キロメートル 2滄桑の変=滄海変じて桑田となるように移り変わりが激しいことのたとえ

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