第三編 藩政時代

第十章 生活一般


 生活費の大部分をしめるものは食料であるが、日常は麦飯であり、なるべく米は余すようにして売却した。あるいはまた凶作の年に備えての貯蔵もした。藩の方でも、米の大阪への移出にある限度を定めていたし、番所や港の役人に命じて、米がみだりに国外へ出ないよう取り締まらせてもいた。このようにして国内にある米が安定するように方策を講じたわけである。

 さらに、酒米の消費にも注意していた。このためにまず糀(こうじ)屋の数を制限した。しかし、百姓町人にはあまり飲酒する余裕はなかった。「酒屋は大切な米をつぶすから長持てがせぬ(長く繁盛しない)」とまで言うほど、当時は米穀を貴重なものに考えていたのである。

 建物は、農家では草または藁で屋根をふいたものがほとんどであった。衣服も、下流一般では綿布を用いた。照明は、屋内では行灯(あんどん)を用い、夜の外出時は松明(たいまつ)が普通であった。元禄年間に初めて出雲でもろうそくが製造されたが、これは藩の専売するものであった。後にははぜの木の植え付けを奨励して、民間の事業とした。こういうわけで提灯(ちょうちん)が田舎で使われるようになったのはかなり後のことである。

 斐伊川・神戸川の流砂には砂鉄が含まれていて、三里浜などではこの堆積したものがあった。そこで、これを原料として小規模の製鉄業が行われた。出雲鉄は北国船に歓迎されていたので、利益のある工業であった。東分浜居場の奥蜂巣(蓮池の訛(なまり))に製鉄所があった。また山地に「かね川」「かな床」などの地名があるが、これも製鉄所の跡ではないかと思われる。砂鉄は小高い所から樋で流し、鉄分を集めて熔鉱炉にかける。出雲藩は初め山中の製鉄を禁じていたが、これは川床があがり、洪水の害をひきおこす怖れがあったからである。しかしその後、森林整理や野獣の駆逐、無職者に職を与えるという政策から、山中において、6人で10か所を限って許すことになった。このとき、東分と山地のものが廃止になったのではないだろうか。

 さて、世は物々交換から貨幣経済の時代へと進んでいった。藩時代の貨幣としては次のようなものがある。

 硬貨1 金貨 大判 (1枚は小判10枚にあたる)・小判 (1枚を1両という。7貫2百文にあたるる)・弐分(にぶ)金(2枚が1両にあたる)・弐朱金(4枚が弐分金1枚にあたる)

 硬貨2 銀貨 壱分銀(1枚は1貫8百文にあたる)・壱朱銀(1枚は4百50文にあたる)

 硬貨3 銅貨 永銭 (1枚を1文という)・4文銭(1枚が4文にあたる。明治以後は2厘に改めた)・文久銭

 硬貨4 鉄銭 (1枚を1文として用いた)
   (備考) 天保銭は18文にあたる。(明治以後は8厘)

 藩札1 銀札 1匁札(ねずみ色)1百44文・3分札(赤色)45文・2分札(白色)30文

 藩札2 銭札 貫札 (ねずみ色)1貫文・5百札

 藩札3 連判 性質は今日の小切手にあたる。通用上は札と同じである。これには、百貫文・5貫文・3貫文・2貫文・1貫文の5種類があった。

 当時地方の富豪は、家中のある者に、特別の厚意を期待していろいろ贈り物をした。こういうことをするのは、郡役人あるいはその候補者になろうとするときや、刑事問題など大事件が起きたときに便宜をはかってもらえるからであった。こういうことをして懇意になる人を「お出入り」という。このような風習は、村内の者の間にもあった。一般の政治が「則らしむべく、知らしむべからず」という方針であったから、自分を守るためにこういう「出入り」の風が起こるのは当然であった。

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