第三編 藩政時代

第九章 百姓一揆(いっき)


 松平藩の末期には、重税の上にさらに苛(か)税を加えるようになった。それも、畔豆(あぜまめ)、井手植(いでうえ)にまで新しく税をかけたので、農民の困窮は一層増すことになった。文化13年(1816)正月に、沖分蛇島の長兵衛と東分の和蔵・善九郎の3人が、長兵衛の宅で新税に反対する方策を協議した。そして、小浜堤防で竹筒を鳴らすのを合図に、各村々から集団をつくって集まり、新鋭反対の示威運動をすることに決定した。しかしこの計画がもれて、3人の発頭(ほっとう)(発企人)は郡廻りに捕えられ、長兵衛・和蔵ともに死刑に処せられている。和蔵が刑に処せられたのは11月18日、行年57才であった。その首は堀切に晒(さら)された。一説では大水門(東分)ともいう。また、長兵衛の首は六部墓の所(尼寺前)に晒された。このような騒動があったので、藩でも、畔豆と井手植に課税することは取り止めにした。農民のために非常によいことであった。これは、今日で言えば減税運動ともいうべきものであるが、その手段が暴動であるので、百姓一揆として取り締まったのである。
 この時、卯兵衛(布野屋)、富三郎(原ノ富屋)の2人が暴動を中止するように懇々と説き聞かせたが、ついに聞き入れなかつたという。しかし、2人はこのため藩から賞を受けた。その賞状として次のようなものが伝わっている。

        覚(おぼえ)

 1米3俵也
             神門郡 神西沖村
                         卯兵衛
                         富三郎

右当正月、村内長兵衛方にて、同人並びに東神西村和蔵、善九郎3人の者、悪意を相談いたし候趣(おもむき)につき、その方どもより右の者どもへ騒動いたし候ては宜(よろ)しからざる旨(むね)、具(つぶさ)に申し諭(さと)し候由(よし)、神妙の事に候。よって褒美(ほうび)としてこれを遺(つかわ)す。
        8月18日

 右の通り神西沖村卯兵衛、富三郎両人の者へ御褒美下し置かる旨仰(むねおお)せ渡され候条、御書付の趣(おもむき)その意を得、早々に申し渡し、有り難く頂戴仕(つか)まつるべき旨申し渡しあるべく候
                         以上
  8月18日   井上善右衛門

   大国為六殿   木村伝八殿    下郡為右衛門殿
   下郡助左衛門殿 与頭佑左衛門殿  与頭太郎兵衛殿
   与頭藤十殿   与頭加一右衛門殿
   与頭徳助殿   与頭八郎左衛門殿

右の通り仰せ渡され候条、御書付の趣その意を得られ、有り難く頂戴仕まつるよう御申し渡しこれあるべく候     以上
                         (前10人連署花押)
        神西沖村
         庄屋 猶兵衛殿
         年寄中

 藩においても当時は、このような苛政を行わねばならないほど財政難に陥っていたのである。その1つは、1年おきに江戸へ参勤し、その滞在中の費用が多くなってきた(江戸の生活費が向上して、藩の収入の半分はここで費すようになっていた)こと、その2は、江戸屋敷が火災にあい、その新築に多額の費用がかかったこと、その3は、出雲にたびたぴ水害があり、そのたびに納米が減った上に多くの修繕費が必要になったことである。そのため家中の者へ渡す禄米も、3斗を1俵(4斗)に計算して渡した。つまり2割5分の減俸をしたわけである。このように出雲の国内は、上下ともに難儀していたのである。

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