第三編 藩政時代

第八章 村治一般


 藩では郡奉行(こおりぶぎょう)に各郡を統治させていた。神門、飯石の2郡は大きい郡であったから1人ずつ置いたが、あとは、北の4郡に1人、南4郡に1人を置いて、計4人が指揮監督し郡を治めた。また、各郡には「下郡(したこおり)」1人、「与頭(くみがしら)」数人を民間から任命して、交替で「郡家(屋)」に勤務させた。神門郡は初め下郡1人、与頭4人ぐらいであったが、後には下郡2人、与頭6人になっている。郡家は、庄屋など各村への布令の伝達と司法の一部をつかさどっていた。郡役人は官選(藩の任命するもの)で、「郡割」として農民は納米のときわずかばかりの附加税を納めた。

 司法警察は、「郡廻」というものの任務であった。郡廻は月に数回村方(むらかた)を巡回して、庄屋宅でその証明をとって帰る。裁判は、ある事項は松江で、ある事項は郡屋で行った。神門郡の郡屋は下塩冶にあった。裁判は、郡役人でなく、別に「往来方」というものの仕事であった。そして、裁判になるまでの犯人逮捕などは「郡廻」の任務になっていた。

 村には、庄屋1人と年寄1人(小村)または2人(大村)がいて、お上からの命令を伝達する。これも官選であった。村内に1戸を臨時に借りて、そこで事務をとるが、この家を「役所」といっていた。納米の取り立ては年寄1人が受け持つが、相符1人を立会させた。年貢(ねんぐ)米は1石につき2升を加えて納めたが、このうちの1升は村方から郡屋に送る郡費である。残り1升のうちの9合を村費とし、1合は地主へ返した。

 水利の便がよくなると、沖分や大島の戸数がにわかに増えてきた。多くは移住者である。土地が広いから分家をつくって耕作させたが、これは分けて作ることにより責任を軽くするという立場からである。その点、今日の土地分譲とはかなり様子が違っていた。

 副業としては、藩政の中ごろから木綿織りがあった。大阪商人が買いこむようになると、木綿織りはたいそうよい副業になった。そのため税率の高い田よりも低い畑で棉(わた)を作るほうがよかった。

 当時の教育としては「寺小屋」があった。神職、僧侶、医者、浪人などのほかに農家の人でも読み書きや算用のできる人の宅へ行って習うのである。期間は任意であった。このようにして習いに行く家を、一般に「寺小屋」といった。

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