第三編 藩政時代

第七章 租 税


 租税は米穀で納める。したがって各村の勢力はこの納石高で表わされる。東神西は720石、西神西は560石、大島は約500石、沖分は900石から千石と言われていた。私の家にある納税帳で、沖分の「輪(わ)名」「石高」「地積」をしらべてみると、

 1、高 787石9斗7升5合 田反 43町6反1畝27歩、畑反 9町9反3畝18歩   吉島輪(わ)・六反輪・柳原輪、前田輪

 1、高 57石6斗5升1合 1石新田(こくしんでん) 田反 2町7反8畝12歩、畑反 8町4反1畝21歩

 右の輪ごとの税率はどうかというと、非常に高率であったことがわかる。一反当たりの輪ごとの税率を示すと、吉島輪1石4斗3升8合6勺、六反輪1石3斗2升7合2勺、柳原輪1石3斗1升8合4勺3才、前田輪1石2斗7升2合6勺9才、畑6斗5升9合9勺2才、石新田1石9升9合9勺3才、畑3斗2升2勺 というふうになっている。

 輪というのは、現在の「字」(あざ)と同じものであるが、1つの輪としては税率が一定していた。毎年稲刈り前に地方(じかた)という藩の役人が来て、輪のうちで適当と思う所を選んで坪刈りをする。それによってその年の輪の税率を定める。したがって下田を持つ者は租税を納めてしまうと、ほとんど収入がない。悪田は人に無償で与え。中には進物(しんもつ)を添えて譲るものもあった。これは「検見」(けみ)の法によったものであるが、もう1つ「定(じょう)法」による場合もあった。これは税率が一定している。沖分のような所はたいてい「検見」であった。栽培には肥料など用いないで天然の地力に任せたから、収穫高は今日の半分とみてよい。そこから一反あたり1石3斗(約195キログラム)も納めるのだから、農民は非常な困苦をなめたことであった。秀吉が全国にわたって検地したとき、出雲を18万6千石とした。松平藩も公称の石高は同じであるが、実収の石高は非常に多かった。

 この納米は、荒木の川方に持って行く。多くは牛に負わせて持って行った。そこから藩は外海へ廻して大阪へ廻送する。これを「登米」という。登米は久村からも出した。藩が大阪へ出した米は、一応藩の倉庫に置いて、相場を見て売ったものである。このようなところが農民の負担であった。

 藩政時代の末期に「籾蔵(もみぐら)」の制度が始まった。納米高に応じて籾を出して貯(たくわ)える。凶作の年に対して備えるのが目的であった。これを「殿蔵(とのぐら)」とも言っていたが、東分では番抜(ばんぬき)に、西分は市場に、沖分は山地・小浜の2か所に、大島は中央部に建てられていた。

  【注】1石新田=本田に準ずる耕地でここでは輪名、2検見=米の収穫前に領主が役人を派遣して豊凶を検査し、年貢高を定めること。

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