第三編 藩政時代

第五章 大氏神


 神西八幡宮の創建については、第二編第二章で述べたとおりである。神社の由緒(ゆいしょ)によると、氏子下は、神西本郷・神西沖・指海・板津・大池・久村・田岐・小田・口田儀・奥田儀・毛津・畑の12村で、これを五箇庄と呼んでいたということである。八幡宮は、藩から特別の待遇をうけて、広く氏子を有していた。朝山八幡(松寄下町)でも塩冶八幡でもみなそうである。これを大氏神とも言っていたが、それだけに祭りは非常に盛大に行われた。社領として14石余りが、藩政時代の終わりまであてがわれていた。

 昔は神社に寺がついていて、これを神宮寺といっていた。ある社(やしろ)の祭祀が神宮寺の僧によって行われたこともある。神西八幡宮にも神宮寺があり、字名田原にあった。この寺はあまり名のあるものではなかったらしい。今では廃寺になって、代宮屋の上の坂峠にある。ささやかな小堂がわずかに神宮寺の存在を物語るものとなっている。八幡宮の大鳥居の銘には

   元禄3庚午(かのえうま)年 石大工大坂いたちぼり 九左衛門

とある。わざわざ大阪から石大工を呼んで造らせたということからも、この神社の勢いの盛んだったことがわかる。しかし、明治5年那売佐神社は郷社になったが、八幡宮は雑社になったから、にわかに衰えてしまった。後、この八幡宮は那売佐神社に合祀されることになった。

 神西代宮屋は、神職の家としては一段上の格であった。つまり幣頭(へいとう)と呼ばれ、神門西南部では神官の頭目であった。藩政時代になってから位階も授けられている。

    叙従五位下 武田忠宗 正徳2年辰7月26日
    叙従五位下 武田常彬 慶応元年5月

 このように八幡宮と武田家と神西家の3つは、離すことのできない歴史的な因縁をもっている。

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