第三編 藩政時代

第四章 十間川開削


 十間(けん)川の開削もまた大梶七兵衛が企図し、設計したものである。これについて、元禄2年(1691)に松平藩が下した示達(命令)は次のようなものであった。

1、今度、馬木ヨリ用水川1御普請(ふしん)ニ付キ、前後ノ手遣(づか)ヒニ油断コレ無キ様下知(ようげち)有ルベキ事

1、川筋ニ2傍爾(ぼうじ)ヲ立テ、普請(ふしん)所ノ分水ヲ落トシ、田ヲ干(ほ)シ候様(そうろうよう)、申シ付ケラルベキ事

1、古志ヨリ大島マデノ内、田ニ成ルベキ3藪林(ソウリン)、ハヤク伐り払ヒ候様、申シ付ケラルベキ事

1、4井手(いで)掛カラザル地ニテ高ク成(な)ル所ノ家ハ、モットモ有り来タリノ通リタルベシ。5地卑(ちひ)ノ所、住居(すまい)成り難キ家ハ、古帳面ノ通り、替地(かえち)ヲ遣(つかわ)シ、或(あるい)ハ山、或ハ地ノ高ク成ル所へ家引キ候様、申シ付ケラルベキ事

  附、持チ掛カリノ薮林、家跡ノ荒レシ所ヲ切り開クノ儀、銘(めい)々自分ニテ開キ立テ申スベク、願ヒノ者ハ、場所相改メ、人別二吟味ヲ遂(と)ゲラレ、或ハ二年、或ハ三年ニ物ニ成レバ、6免許為(な)スベキ事

1、寺社屋布(やしき)、今度井出掛カリ田二成り候所御年貢(ねんぐ)地へ所替へ候ハバ、7有り来タリノ帳面ノ替地ヲ引キテ遣スベク、モシマタ、空地ヲ見立テ引ッ越シ候者ハ、跡地ノ作付(さくつけ)コレアル分ハ、8出目トモ免許地トシテ証文遣スベキ事

1、9丁卯(ひのとう)ノ書出シノ趣、最前(さいぜん)古志村妙蓮寺並ビニ春日社、同神主屋布所替ヘノ跡地、藪林ヲ伐(きり)払ヒ、畑開墾ノ所、今度田ニ成り、石高増シ侯分ハ、石高10相極(きわ)メ候上ニテ免許地トシテ証文遣スベキ事

1、日雇(ひやとい)夫ノ事、頭(かしら)役二申シ付ケ、正月25日ヨリ閏(うるう)正月中二御普請調(ととの)へ候様、下知(げち)アルベキ事

 附、荒木原、百日山地平(なら)シ、ソレゾレ方角ノ村ヨリコレ、マタ申シ付ケラルベキ事

1、11余郡ニスグレ、寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)打チ続キ、神門一郡トシテ大分ノ日雇夫差シ出シ、神妙ノ至リ二候。コレニヨリ褒美トシテ米5百俵遣シ候事

1、今度、古志・芦渡・知井宮・神西・大島・境島ノ者ども迷惑セシムベク候間、別段二借銀申シ付クベク候間、人別ニ吟味ヲ遂ゲ、申シ出デラルベキ事

1、13御普請方某某、御普請場三日充(ずつ)ノ14丁場、前廉(まえかど)ニ割符(わっぷ)大庄屋へ引キ渡シ、ソノ当日二遅々コレナク、諸事手遣ヒヨク了簡仕(つかまつ)り、丁場二相詰メ、油断ナク打チ廻シ申シ付クベク候。モットモ、御足軽モ右こ同前タルベキ事

1、出夫ノ儀、里方ハ程近ニ候ヘバ、ソノ日帰リニ仕(つかまつ)ルベク候。山中遠方ノ出夫ハ、16佗(他)宿仕ルベク候条、二十人二一人充(あて)(ずつ)17食焼夫ヲ算用二立テ遣スベキ事

1、人夫着到所ノ某ヨリ仕出シ帳面ヲモッテ諸払ヒノ御足軽請(う)ケ取り侯ハバ、奥〆(じめ)某某両人ノ内代り侯改判取り申スベキ事

1、今度ノ新川・新井出筋ノ指図(さしず)ハ某、18土手水通リノ儀ハ某、両人ヨク申シ合ハセ了簡仕ルベク候。両人ノ内存ジ寄り違ヒ候所ハ、各(おのおの)了簡候ヒテ、19落着成り難キ儀ハ、ソノ趣、松江へ注進コレアルベキ事

      元禄2己 正月14日

 工事担当の頭役は、代官の鵜飼(うがい)可定と郡奉行(こおりぶぎょう)の岸崎左久次、それに技師長格の大梶七兵衛である。所原の小字和谷から誘水渠(きょ)を掘ること五百間、次に十間の岩樋、次は堀割55間で、それからは堤防となる。後に大堰(せき)をつくってからこの誘水渠は廃物になった。これを十間川というのは、堤防の外脚の間が10間(約20メートル)あるので、この名がついたものである。この川から分かれたものが上井手として西分までのびている。東分は十間川と同時についたと思うが、西分はいつであったかよくわからない。それも間樋口の記念碑の文字をはっきりさせればわかるだろう。この工事は、元禄2年(1689)の春に終わったことと思う。

 この川の設計をして藩に建議した大梶七兵衛は、工事が終わるまで非常な苦心をした。工事開始前から、大社奥ノ院に鎮座の大阿弥陀仏に祈願をこめた。工事が成功したら大阿弥陀仏に新しいお堂を十間川に面して建立するという願であった。だから川が出来上がるとすぐに、代官鵜飼可定と協力して、十間川に面してお堂を新しく建立した。明治維新の後、この堂は多聞院の境内に移したが、毎年7月24日の大阿弥陀祭には、8村(旧村)から祭費を出していた。

 工事が始まると、自分の田地が川床にかかるもののなかには反対するものもいたが、そういう人々に、七兵衛は、「田地(でんち)が惜しくは土を喰(くら)へ」と言ったという。禅問答のような、なぞめいた言葉であるが、彼の言ったとおり、工事の後にはたくさんの良田が出来た。失った田地以上の土地を得ることになったのである。そんなことから、「娘やりたや古志知井宮へ、畠(はたけ)田にして米どころ」と俗謡にうたわれるようにもなった。この川を新しくつけたことで、宇賀池、小黒池、吉廻池、麻柄池、博変池など7つの池が田となり、6代目七兵衛が藩に提出した文書には「増石8千石の御為(おんなし)仕り侯」と言っている。この8千石は十間川の水をひく514町1畝21歩にあたるものである。

 大梶翁はこの年の5月25日、69歳でなくなった。その子もこの年の秋なくなって、孫はわずか6歳であった。この頃の大梶家はたいそう貧しいことになっていた。もとは80町歩も所有していたが、荒木村の開拓やその他の諸工事に私財のすべてを投じたのであった。そこでこの大梶家の幼い主人は、十間川流域の各村々から米3俵ずつの寄附を頼んだという。

 新川の開削も間府(まぶ)の開削も、大梶翁の独創や発見ではない。出雲にも他国にもこうしたことの先例はいろいろある。しかし翁が私費を投じて成し遂げたこのすばらしい事業は、永久に記憶しなければならないものである。義心の強い大梶翁の願うところは世の人々を救うことであって自分の利益ではなかった。

  【注】 1御普請=ここでは土木工事のこと、2傍爾=傍示で、立て札のこと、9藪林=やぶや林、4井手=川 5地卑ノ所=土地が低い所、6免許=特定の人に対するゆるし、7有り来タリ=従来、8出目=余分に増えた所、9丁卯=卓亨4年(1687)、10相極メ候上=決定した上、11余郡ニスグレ=他郡以上に、12寅=貞享3、辰=元禄元年、13御普請方媒=工事担当の役人、某はなにがし、だれそれの意、14丁場=受け持ち区域、15前廉に割符=あらかじめ(工事予定)の文書(合わせてみてたしかめたもの)を大庄屋に… 16佗宿=他宿で、他人の家に宿ること、17食焼夫=食事を作る人夫、18土手水通り=土手の高低をきめることか、19落着成り難キ儀=決着がつきにくいこと。

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