第三編 藩政時代

第三章 差海川開削


 神西湖に続いていた沼沢はだんだんに埋められて耕地になっていったが、低い土地はそのまま水稲を植えた。しかしこの湖は、ここに注ぐ川はあってもこの水を吐き出す口がなかった。(昔は妙見と差海との間に排水川があったという説もあるが、これを否定する説もある。)このため長雨が降り続いて神西湖が満水になると、沿岸地帯は水がぬまってしまい凶作となる。この湖害を除くため、高岩に貴船神社が祀(まつ)られた。井ノ内谷口の貴船神社も同じような事情から郷中に建てられたものである。

 このような時、神西沖村にいた間島作庵藤崎五右衛門の2人は湖害を除く方法について大梶七兵衛に相談した。七兵衛は実地を調査して差海川開削の計画を立て藩に請願したところ、松平藩もこれを許可したので、貞享3年(1686)に工事を始め翌年に竣工した。この排水川を新しく作ることによって、湖畔の6か村に380町歩の新田が出来た。文化5年(1808)10月6日、七兵衛が藩にさし出した「勤公書出」に「都合(合計)2千石許(ばか)り増石に相成り候」と言っている。

 言い伝えによると、間島作庵は九州の人、眼科医で、大社詣(まい)りの道中で蛇島西方の砂原を見、ついに蛇島に住んで、植林をしたものだという。間島は、馬島または真島とも書く。作庵はこの功績によって蛇島西方の地をもらったということである。藤崎五右衛門もまた賞をもらったという。作庵は、後松江に移住して藩医を勤めた。蛇島に自分が堂守をしていた観音堂があるが、その祭りは自分の不在中よろしく頼むという書類を送っている。その後代々松江に住み、「安政2年(1855)御給帳」には、「町医5人扶持真島眼智」ということが出ている。野津左馬助氏は出雲史の研究家であるが、「馬庭作庵、伊藤屋五右衛門」と書かれたので、「簸川郡名勝誌」もそうしている。しかし、これは何かの誤りからであろう。本村史は『出雲私史』によっている。『出雲私史』は文久2年(1862)に藩の儒者である桃好祐の書いたもので、正しいものと考えねばならない。もっとも、藤崎か淵崎は山地の1地名で、伊藤屋(いとうや、あるいは、いとや)は屋号であって、同じ人を違った名で呼んだものかもわからない。
『出雲私史』の一節をあげると、

  初め眞島作庵、藤崎五右衛門等(ら)、この川を作らんと欲して成らず、作庵、五右衛門皆神西沖村の人なり。ここに至りて、上古志村に大梶七兵衛なる者あり、地理に通ず。因(よ)りて命じてこれを作らしむ。二部、三部、指海、神西諸村の汚池悉(ことごと)く田と作る。

とある。

 この差海川開削は七兵衛の独創ではなく、作庵、五右衛門の2人が計画したものであったことは、この『出雲私史』でわかる。開削事業も藩落としての工事で、大梶翁はこの工事の監督役であった。また、この川の切り貫きに、「山本(知井宮)に50貫、富屋(問屋、布野の分家)に50貫の寄附をさせた」という言い伝えもある。恩恵を受ける大地主に寄附させたもののようである。

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