第三編 藩政時代

第二章 武士の帰農


 尼子が滅(ほろ)んでから出雲武士はたいそう数が少なくなった。関ケ原役の後は、毛利の領地も防長2州に縮少した。出雲に封(ほう)ぜられた堀尾の家臣も多くはかの地から来たものである。特に、戦国時代に比べると一般に武士の数は少なくなり、尼子の末期では4万、5万という大軍を率いていたが、松江藩では、宝暦頃(1751〜1763)「15,019人の家中、諸士ヨリ妻子百姓共」であった。これでは、妻子を除いた武士は、3千人から6千人ぐらいのものと思われる。尼子軍の10分の1である。こういう事情で、尼子滅亡後の出雲では非常に多くの浪人を生じ、この浪人ははとんど百姓になった。

 しかし浪人とはいっても、もとは武士であったから、領主とは特別の関係があって、1つの地域を持つ者もあり、不毛地の耕作権を得た者もある。農家になっても普通の農家より上位の階級にいた。「八幡宮古証文写し」に、「慶長19年、肝煎(きもいり)布野神兵衛、糸賀源右衛門、布野吉右衛門、宮奉行諏訪部神右衛門、大工玉串久左衛門、かちや与一右衛門、小村弥兵衛、山辺利右衛門、布野治右衛門、石富惣右衛門、神西藤右衛門」の名が見える。「肝煎」とは後の庄屋に当たるもので、「かちや」以下の6人は頭百姓に当たるものと思う。翌20年には、「肝煎多岐善右衛門、布野神右衛門、糸賀源右衛門、布野治右衛門、宮奉行諏訪部勘左衛門、玉串久左衛門」の名が出ている。そして肝煎は4名となっている。

 「多岐」の2字は「瀧」1字にも書く。瀧は、小浜から高岩の間に所有地があって、一時は富豪で名を知られたものである。山本醒翁の話では、古い俗謡に、「大津森広今市澤屋、塩冶角屋に古志馬庭小浜の滝にたちや(たては)あはぬ」とあることを聞いたが、当時小浜の滝家はそれほどの富豪であったということである。布野の本家は羽根坂の西あたりにあったのだろうか、これも富豪であったようである。『出雲鍬』に、「下郡、神西村布野与兵衛」という名が出ている。当家かその一族かであろう。塩冶村の布野氏と長楽寺は、毛利の保護のもとに、備後の布野から移った。羽根坂の布野と塩冶の布野とは関係があるかどうかよくわからない。しかし、羽根坂の布野も毛利時代に来たものと思われる。その家は今八島にあって、墓だけが残っている。この家が衰えたので、墓を惣廟1基に作ったようである。惣廟基台の四隅に五輪塔4基が載せてある。この家の初期には五輪塔墓であったのだろう。するとこれも武士であったことがわかる。このように当時の浪人は多く農業に携わることになった。時代は戦争から離れて産業に進む機運に向かったわけである。

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