第三編 藩政時代

第一章 村界の確定


 村界(むらざかい)を確定する前に、大島の隣接地と神西湖のことを述べなければならない。西園茅(かや)原の地方は、もともと神門水海の跡で、沼や沢があり、茅(ちかや)、萱(かや)などが生い茂った草地が多く、耕地はたいそう少なかった。秦喜兵衛がこの地方の開墾と埋め立てに尽力したため、次第に良田が出来て、新田の収穫は1,200石にもなった。これは慶長の初め、毛利時代のことである。

 豊臣秀吉が天下を統一すると間もなく、全国に命令を出して検地を行わせた。「文禄水帳」がこれである。これによって村界が確定して動かないものになった。

 神西村は現在も西園へ長く狭く突き出ているが、この狭くて長い土地は、神戸川の旧床であり、「古川」という名を負うている。神戸川の堤防が現在のようになったのは藩政時代の初期である。この時、大島葦場へ川を直角に曲げてつけ替えることにすると、大島地内へ新川をつけねばならない。そのために失われる土地の代わりとして、旧古川跡をくれたものと思われる。

 慶長5年(1600)には堀尾吉晴が出雲の藩主となった。この堀尾藩主の政治は、各郡に代官を置いて行うが、その代官には藩吏が任命された。また、各村には庄屋を置いた。庄屋はその村の適任者を任命したのであった。

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