第二編 地頭時代

第八章 小笠原家と大就寺


 永禄3年(1560)、毛利元就が出雲へ攻め入った頃にはすでに神西城は敵(毛利)の手に入っていたと考えられる。それから慶長5年(1600)の関ケ原の戦いまでに神西はもちろん出雲一国が毛利の治下になっている。「八幡宮古証文」によると、この頃は地頭は置かず、代官で治めていることがわかる。

  毛利元就芸州二在り。広島在城ノ時マタ神領ヲ元ノ如ク2町7段6畝18歩寄附ス時ノ代官庄屋ハ田中実相

 この記録によって当時は代官の支配するところであったことがわかる。

 当時、石見東部において大きい勢力のあったのは小笠原家である。小笠原長隆の子長徳が家を継いだ。長徳は大内に降っていた。次はその子の長雄が継いだが、ある時は尼子に降り、ある時は毛利に降っていた。尼子滅亡の頃、小笠原長雄(なかかつ)の領地は、石見の邑智・迩摩・安濃の三郡にまたがり、16,769石3斗9升の所領があり、出雲にも5百貫文の地を領知していた(長雄)は常に病気がちで、広島表へも勤められないほどであった。この後は長雄の子長旌(なかはた)が家督を継いだけれど天正19年(1591)9月23日、毛利から国替えを命ぜられた。これが出雲5百貫文の地であり、翌年の文禄元年(1592)に出雲の領地に移ったのである。

 次に、大島の発達について考えてみたい。神門水海(かんどのみずうみ)、つまり後の神西湖は、簸ノ川と神戸川の2つの川の流砂が堆積して湖内に洲が出来、次第に湖岸線を縮めて行った。後には神戸川が大島の東部に流入してきた。このような洲の発達してきた様子は、大島、梶島、蛇島、境島などの名に注意してみるとわかるように思われる。大島から西では湖がむしろ川の形に変化したものらしい。戦国時代には大島にも集落が発達して、神社が創建された。

 大島神社
  祭神 天照皇大神
  由緒 往(むかし)古大島村藤田与兵衛ナルモノ敬神ノ念厚ク、伊勢国皇大神宮へ参拝シ、御神璽ヲ受ケ、帰村ノ上勧請(かんじょう)スト。サレドソノ年暦詳(つまびらか)ニセズ。

 小笠原長旌は大島の外に三分辺を領地としていた。城は三分に築いた。下横尾城というのがそれである。入部の年の5月20日、家老の志谷修理亮長通の連署をもって1石3斗3合を、また6月晦日(みそか)に3斗8升を、伊勢宮(大島神社)へ寄附した。また、下横尾城の鬼門にあたる大島に大就寺を建て祈願寺とした。大就寺は、

 創立 天文14年(1545)頃 開山僧名 大長院快尊
 沿革 小笠原長雄、毛利元就の命により、三分に城を築き、その祈念寺として建立す、寺領約2町歩を有したり。

とある。この記録によると、大島と三分が、天文14年(1545)頃すでに小笠原家の所領になったものらしい。

 長旌の次は弟の元枝が継いだ。元枝の元服名を長郷(なかさと)というのだろうか。元枝は毛利のため軍役についた。元枝の後は長親が継ぎ、征韓の役にも出た。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以後、毛利は周防、長門の二国以外はすべて没収され、出雲は堀尾吉晴が封ぜられた。毛利が長州に移るとき小笠原は家臣として用いられなかったので、長親は一時浪人となったこともあったが、後、再び毛利に仕へた。こういうことで大島地頭の小笠原が三分の城にいたのはわずか9年間であった。大就寺には小笠原家3代の碑がある。

   天叟院殿常久大居士同長旌(裏)文禄4年未(1595)6月6日 古志大門
  大就院殿成是大居士小笠原長雄(裏)永禄9寅(1566)12月9日
   宗天院 常雲大居士同長郷(裏)慶長4亥(1599)3日8日 本願長秋

 これは大就寺や大島に関係のある小笠原長雄、長旌、長郷3代の墓というよりはむしろ記念碑といってよいものである。この碑の裏面の銘に「本願長秋」とあるが、この人が記念碑を建てた小笠原家の人と思われる。また、「古志大門」とあるが、これも記念碑建設者の1人である。古志の高見は古い小笠原家の一族らしい。

 大島は東から西に向かってだんだんと発展した形跡がある。上分は昔の知井宮沖分の地域で、智伊神社を氏神とした時代もあるらしい。小笠原地頭は、大就寺の東に米倉を建てていた。延宝2年(1674)の大洪水で大島神社の境内はことごとく破壊されてしまったので、社殿を引船原に移した。しかしここも次第に人家が密集することになったので、またこれを葦場(あしば)に移した。

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