第二編 地頭時代

第二章 八幡宮と十楽寺


 小野高通は貞応2年(1223)の入部で、八幡宮の勧請(かんじょう)は貞応3年8月朔日(ついたち)である。鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したが、武家にあがめられ信仰されていた八幡宮が高通によって勧請されたことは当然のことである。「八幡宮古記」 に、

 八幡大神御守リニ相州へ遣サレ候(そうろう)者ハ、波賀佐村ノ神主竹田筑後ナラビ二、同村ノ百姓二小村卜申ス者ヲ相添へ、八幡宮ヲ勧請シ奉(たてまつ)り畢(おわ)ル。コレ則(すなわ)チ今ノ神西ヤワタ八幡大神ナリ。小村氏、八幡大神ヲ守り奉ル二依(よ)ッテ月ノ祭祀二御(お)神楽(かぐら)初メヲ致シ、ソレヨリ氏子中ノ御神楽次第同ジカラズ。

と出ている。武田家 (代宮屋) の系譜には、

 八幡宮勧請ハ竹田筑後(第3代目)ト神西藩家老職小村弥兵衛両人、鶴岡八幡宮ヲ勧請シカヘル。

とある。これが八幡宮の創建である。
 次に、武家信仰の対象となった禅寺であるが、これについては十楽寺に次のような記録がある。

 鎌倉ノ住人神西三郎左衛門小野高通コノ地二封ゼラレ、鎌倉ノ常楽寺ヲ移シルモノ即チ当寺ナり。ソノ後真宗二改宗スルニ際シ、『常』ノ字ヲ『十』二改メ、今ノ寺号アリ。ソノ後寛文年中二洞光寺(松江)ノ天憐和尚ヲ請ジテ開山トナシ、則(すなわ)チ曹洞宗二改メタリ、伝説デハ、今ノ江南村大字常楽寺ハ当寺ガ神西家ヨリ祠堂料トシテ拝領セシニヨリ、ソノ名アリ。

 十楽寺が昔火災にあい、古い記録が全部は伝わっていないのが惜しいことである。

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