第一編 官治時代

第四章 神西の名称


 神西という名称の起源については2説がある。1つは神に関係させた説であり、他の1つは郡名に関係させた説である。神に関係させた説は、高倉明神という有名な故事があるので神西といい、本来は「神在」でなければならないと主張して、神在と書いたと言う。あるいは、須世理姫命の居所であるからこの名がついたとして、「神妻」とも書いた。今から240、50年前の郡奉行(こおりぶぎょう)岸崎時照のころは、神西、神在、神妻の3様に書かれて、しかも通用していたようである。また郡名に因(ちな)んでいるという説は、松江藩の儒者(じゅしゃ)桃好裕(ももこうゆう)の説である。彼は幼少のころから学問を好んでいたが、出雲の歴史に関係したことはすべて抄録し、これを整理して文久2年(1862)に『出雲私史』を著した。しかし、その出版は明治も20年を過ぎた後であった。これには、

 村名をもってこれを考ふれば、意宇(おう)に意東の村あり、神門に神西の村あり、大原に大東、大西の村あり。出雲に今読んで出東となすもの、而(しこう)して出西の村あり。およそこれらの村、古昔は皆分かちて東西2郡と為し、後また合して1郡と為す。而して今その名を1村に存すか、しばらく疑ひあり。もって後考を待つ。

とある。この考え方は、神門郡の東部を表す意味の地名があれば解決のつくものである。長い間そういう古記録が現れなかったが、近年になって「神東村」の名が見える古書が3通出てきた。1通は「富雲次郎に八幡宮神職を申し付くる」という文書で、1通は、「貞昌より日御碕神領寄附状」であり、もう1通は、「貞綱より八幡宮社領寄進状」である。3つの文書ともに、応仁の乱前後のものである。この神東村は現在の上塩冶の北部にあたる地方である。

 さて、神西と呼ばれた地方はどのあたりであったか、またいつごろからこうした名がついたのだろうか。660余年前の文書に「神西本庄、神西新庄」などと出ている。新庄の地頭(じとう)は承久の乱直後に来た、いわゆる新補地頭であるらしい。本庄地頭は、あるいは、それより30年ほど前の武家政治の初めに来たかもしれない。すると、「神西」という庄名は、武家政治の開始期か、もっと以前の平安朝ごろからの名称であると思われる。

 「文明2年(1470)神西湊(みなと)合戦」という文書がある。石見から出雲へ船で攻めて来たものと考えられている。京都で応仁の戦乱が始まったとき、出雲は京極の持国(所領)で、細川派であった。けれども、山名派から密使が出雲へ潜入して出雲の国に騒ぎを起こさせた。そのため国内の所所で合戦があり、文明2年に鎮定(ちんてい)された。神西湊へ押し寄せた石見の軍勢は大内の配下で、山名派である。石見の軍兵が着いた湊を神西湖と考えるのは偏見であり、西浜か久村あたりと考えてよかろうと思う。神西という地名が今の神西より広いところをさすのである。

 出雲守護の佐々木氏は塩冶にいて、塩冶という郷名を字(あざ)の名とした。そこで、神東の名は縮少して、上塩冶あたりの小村の名としてわずかに残った。それも後には塩冶という名に圧倒された。しかし、神西は地頭の小野氏が神西という字名を用いて、数百年間居城していた。そのひざもとであるから、神西という名はいつまでも消えなかったのである。しかし、昔に比べれば、その地域が縮少している。

 このように、地方の部位を通称とすることは今日でもあることで、新聞などにも、出雲の南3郡あたりを雲南といい、石見の東部2郡に石東、西部3郡に石西の名をつけて呼び、これが大体通称になっているようである。大原郡で、東を大東といい、西を大西というのも、平原部のことで、山地を除外したものである。もし神門郡も、平原部のうちで東西をつけたとすると、神東は塩冶大津で、神西は江南、西浜辺までであろうと思われる。

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