第一編 官治時代

第三章 滑狭の交通


 次にこの時代の道路について考えてみる。今の国道(旧国道)で、堂ケ原から東は当時通路のできる所ではなかった。その理由の1つとして、神門の水海がある。後世の神西湖の様子を『出雲国風土記』には、

 神門水海(かんどのみずうみ)。郡家の正西(まにし)4里50歩なり。周り35里74歩あり。裏には則(すなわ)ち、鯔魚(なよし)・鎮仁(ちに)・須受枳(すずき)・鮒(ふな)・玄蠣(かき)あり。

と述べているが、大きなものであった。35里74歩は今の4里32町余(約19キロメートル)にあたる。今の高松村西南部、園村東部にまでひろがっていたらしい。この湖水は九景の波打ちぎわから東方に延び、沼や沢とともに葦(あし)などが東分地内にまで侵入していたようである。昔の道は人工に依らず、自然に出来たものを通路とした。したがって、降雨や出水による損害も少なく、道路の形がなくならない所を選ぶ。このためには本村では山の手を伝わらなければならない。また道路は、馬が通らねばならなかった。馬の通う道を「路」といい、人間だけが通る小道は「径」と言っていた。本史に述べるものは路のことである。

 幅4尺(約1.2メートル)ぐらいの最も古い道路は、保知石高瀬山の南麓を通り、長廻に出、井ノ内か西小山を越えて岩宿谷に出、羽根坂を通り代宮屋峠を越える。これから西は道が2つになる。十楽寺峠から市場に出るのと、鋳物峠を通るのとである。西分市場から江南の姉谷をへて石見街道に通ずる。また長廻を通らないで浜井場へ出て間谷へ越す道もあるが、当時は間谷も麻柄も、谷全部が池であった。すると、長廻路を正しいものと見なければならない。

 この道路に沿って2つの古墳がある。1つは長廻にあって、40年ばかり前に発掘されたものである。発掘当時は、石棺内に塗った赤い朱が鮮やかに見えた。石郭(かく)がないから略式のものである。もう1つは、羽根坂の所にあったが、蝕害を受けた石棺を壊して土止めを兼ねた石段にしていた。このような古墳は豪族のもので、一般庶民の墓ではない。滑狭にいた稲置(いなき)か、あるいは、古志にいた郡の役人のものであろう。 この石棺は遠方から非常に多くの人手で運び、墓を築くのにも多くの労役を必要としたであろう。したがって道路からあまり離れた所におくはずがない。祭祀にも不便だからである。路傍か、またはそれほど道路から遠くない所と考えてよい。

 滑狭郷は、当時の里制から考えると、60戸以上100戸以下であったと思われる。しかし、戸といっても今とは違い、子が別に世帯を持ってもなお父の戸内にある。そこで戸数と棟数軒数)は合わない。1人の家長の下に10数軒、多いものでは20軒ある場合もあった。

 古代は小川のほとりが農地であったが、その後次第に池が築かれて稲田も広がっていった。耕地は谷になったところ、あるいは山すそにあったが、住宅は耕地を避けて作られるので、集落といえば、山の手に多いことになる。したがって、集落、村落をつなぐ関係からも、道路は山の手にあることになる。

[表 紙]  [目 次]  [前ページ]  [次ページ]
inserted by FC2 system