第一編 官治時代

第二章 滑磐石と滑狭郷


 麓谷岩坪のほとりに、須世理姫命(すせりひめのみこと)の宮居(みやい)があった。姫は大国主命の嫡妻(正妻) である。大国主命がしばしば姫の宮に通われた時、宮の前の岩が滑らかであったので、「なめしいはなるかも」と言われたという。これが滑狭(なめさ)という地名の起源である。これは谷の名から村の名、ついに郷の名にまでなっている。

 『出雲国風土記』では滑狭郷について次のように述べている。

 滑狭郷(なめさのさと)  里(さと)二

 滑狭郷。郡家(1ぐうけ)の南西8里なり。須佐能袁命(すさのをのみこと)の御子(みこ)、和加須世理比売命(わかすせりひめのみこと)坐(ま)しき。爾(そ)の時、天(2あめ)の下(した)造らしし大神命(おおかみのみこと)、娶(つまど)ひて通ひ坐しし時に、彼(そ)の社(やしろ)の前に磐石(いわ)あり。其(そ)の上甚(いと)滑かなりき。即(すなわ)ち詔(の)りたまひしく、「滑磐石(なめしいわ)なるかも」と詔りたまひき。故(かれ)、南佐(なめさ)と云(い)ふ。(神亀3年(726)、字を滑狭と改む)

 神待については伝説がある。姫が神待の地に出て、大神の来られるのを待たれたというのである。それで神待というと伝えているが、正史にないことだから、真とも疑とも言えない。「かみまち」という語は、地学的にも考えてみる必要があろう。

 岩坪の西南数十歩のところに大国主命が国土経営の際に宮居(みやい)をされた所があると、那売佐神社の由緒(ゆいしょ)にある。

 この時代既に5穀は栽培されていた。大和民族は耕作し牧畜を行う民族である。稲田はいわゆる長田、狭田(さだ)で、小川のほとりにある自然の平地を用いた。大きな河川に堤(つつみ)を築いたり、堰(せき)を作ったり、関門を設けたりすることは、はるか後世のことである。当時、岩坪谷、麓谷などは最良の農地だったと思われる。ここが2神の旧跡であるというのももっともなことだと思う。

 『日本書紀』に、成務天皇の御代(みよ)、「国・郡に造(みやつこ)・長(おさ)を立て、県(あがた)・邑(むら)に稲置(いなき)を置(た)つ」とある。邑を治める者は、稲置という役人であるが、およそ80戸に1人の稲置がおかれた。この後稲置の政治がつづくが、大化の改新と大宝律令の制定で中央集権の世となり、出雲国など一部の国を除き国造(くにのみやつこ)と稲置はなくなった。

 大宝律令の制度では、50戸ぐらいを里(さと)とし、いくらかの里を合わせて郷という。里と郷は行政上の単位である。この里の中の家の集まりを村といっていた。村は、「むら」すなわち群(むれ)という意味で、今日の小集落ぐらいにあたる。
 滑狭郷には里が2つあると『出雲風土記』にあるが、この郷の範囲、つまり滑狭郷は今日のどのあたりをいうのであろうか。これについては、天平11年(739)の『出雲国大税娠給歴名帳』という古記録に、

   滑狭郷  阿祢里(あかねのさと) 池井里(ちいのさと)

と出ているので、大体の地域を想像することができる。阿弥とは江南村姉谷であり、池井は知井宮村のことであるが、知井宮村の西部であると言う学者もある。すると、江南、神西、知井宮の3村をもって滑狭郷と定められたものと思われる。東西に連なるこの地域を2分して、西部は阿祢里とし、東部を池井里と名づけ、郷名は滑狭と呼んだものである。

 『出雲国風土記』に載っている神社は次の7社である。

  波加佐社 奈売佐杜 知乃社 阿祢社 奈売佐社 波加佐杜 同(おなじ)波加佐社

 この時代の神社名は地名を負っている。波加佐社とは、高倉山から西北にかけての地で、山地山も波加佐と呼んだものらしい。その後200年ほどして出来た『延喜式』には

  阿祢神社 那売佐神社 同社座和加須西利比売神社 佐伯神社 智伊神社

と出ている。ここで注意すべきは、波加佐三社の名が消えたことである。現在、神社由緒によれば、1つの波加佐社は那売佐神社へ合祀になり、もう1つの波加佐社は西分の田中明神つまり波加佐神社で、さらにもう1つの波加佐社は佐伯神社のことであるとしてある。延喜のころ1つの那売佐社は、和加須西利比売神社と祭神の名を神社名とすることになり、しかも那売佐神社と相殿(あいでん)(合殿)になっている。西分の波加佐社はこのころ一時廃滅したものと思われる。『延喜式』に載っている神社を式内神社と呼び、載っていない神社は式外(しきげ)神社と言って、昔は社格を分けたものである。

 佐伯神社についてはいろいろな説がある。波加(伯)佐の2文字が轉倒(てんとう)して佐伯として書かれたというおもしろい説もある。しかし、それよりも「佐伯」ということを国史の上からながめてみた方がおもしろいように思われる。桓武天皇の延暦17年(798)に、蝦夷人(えぞびと)を相模、武蔵、常陸、上野、下野、出雲の6国へ流されたが、この配流の蝦夷(えみし)を管理する役人は佐伯部(さえきべ)といった。

 当時勢力のあったこの一族が氏神をまつったのを佐伯神社と呼ぶのではないだろうか。その際波加佐社の社名を換えて氏神としたか、あるいは、波加佐社は荒廃し、新しく佐伯神社を建立したものか、わからない。

 それから、当時の村のことであるが、麓谷は那売佐村と言っていたし、西分や山地のあたりは波加佐村と言ったものである。波加佐村という名は、ずっと後の永禄のころ(1558〜1570)まで残っている。滑狭の名はいつとなくすたれて、岩坪と言うようになった。滑磐石(なめしいわ)の上を流れる水が斜に落ちる所に大小の壷形の穴を作った。この穴が岩壷、すなわち岩坪である。

【注】1郡家=郡司(ぐんじ)が政務をとる役所、2天の下造らしし大神命=大国主命、9つまどひ=女を訪ねて求婚すること

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