第二編 地頭時代

第四章 神西家の勢威


 神西家は、小野高通が入部してから162年経(た)った頃にはその勢力がはなはだ強くなっている。この頃大社領と朝山八幡領との境界について論争が起こり、朝山八幡の方では京都の幕府に訴え出た。幕府は出雲国内の豪族に命じて適切な処置をとるようにさせた。この豪族とは、宍道兵部少輔、飯尾加賀守、神西越前守、三沢遠江守、古志左京亮の五人である。このうちに神西家もはいっているということは、既に出雲では有力な豪族であったということであるが、この頃に名字(みょうじ)も「神西」としている。そして「越前守」(もとは官名であったが、この時代は位階に似たものになっている)を帯びている。

 文明2年(1470)の神西湊合戦の事は第一編において述べたが、それに関する文書がある。

  今度の神西湊合戦においては、自身大刀を1椹とし、官人三十六人討ち死にせられ、その外数輩疵を被りし由承り候。もっとも神妙の至りに候。いよいよ戦功を竭(つく)さるべく候也。恐々謹言

  文明2年(1470)12月3日         政高
     尼子刑部少輔(ぎょうぶしょうすけ)殿

 この戦いの司令者(総大将)は尼子清定であるが、神西家も自分の足下(あしもと)の事だから参加していると思われる。

 彼は後、神門郡奉行(かんどころりぶぎょう)となった。奉行は監察統制を役とする職名であって、知行(領地として治めること)ではない。だから神門郡一郡を領地として支配したものではない。これについて次のような文書がある。

  当国神門郡の奉行の事、補任する所なり。2成敗を守り、3沙汰致すべきの状件(くだん)の如し

  明応8年9日27日        (京極政経)
     神西越前守殿

 それから3年目の文亀元年(1501)には下の状を受けている。

   官途の事、子細(しさい)有るべからざるの状件(くだん)の如し

  文亀元年12月27日       (京極政経)
     神西左京亮殿

 官途とは何の事か不明である。また越前守が、ここでは左京亮(さきょうのすけ)にかわっている。これは一族内にそういう人があったのかと思われる。

 これから戦国時代にはいるが、この時代の神西家の地位を述べてみたい。まず相続上の移動があったようである。

  今度我ら牢籠(4ろうろう)に就き、5本領職の事御抱え候。いささか等閑にあらず候。我ら身上(6しんじょう)果て置候とも、7又の者相かかわり候とも、神西8家徳(家督)の儀、貴所へ進め置き候。
併せて、代々の9支証等の儀、これまた渡し置き候者なり、仍(よ)って譲り状件(くだん)の如し。

   天文4年(1535)12月1日        久 道
     三郎左衛門尉 御宿所

 この頃出来た「竹生島奉加帳」には出雲武士の主(おも)だった者を挙げている。尼子一家6人、その親類4人、出雲衆68人、富田衆36人を並べてあるが、神西三郎左衛門尉は順序を外れて、出雲衆の末尾にある。前の文書にある三郎左衛門尉は、家督をついでもまだ幼少の城主であったためであろうか。

 天文9年(1540)芸州吉田度々合戦(『雲陽軍実記』にある)に神西家の事が出ている。

…………元就より加勢として2千騎ばかり、坂新五兵衛と粟屋縫殿允(ぬいどのじょう)とを両大将として横鎗(やり)を入れられければ、湯原二郎左衛門幸宣、牛尾、神西の者ども6、7百騎にてこれを防ぎける。いづれも深手(ふかで)を負ひ、二郎左衛門はついに討たれければ、牛尾も神西も晴久公とともに豊島の本陣を打ち捨て引いて行き、毛利方にも10宗徒(むねと)の者27人まで討たれ、11手負ひはその数を知らざるゆえ、双方相(あい)引きにける。…………

『陰徳太平記』では、この戦いに「神西甚允」としている。

 また、天文10年の事である。周防の山口城主大内義隆の方では、出雲へ攻め入ることについて軍評定(いくさひょうじょう)(作戦会議)があった。時に、

  相良遠江守と冷泉判官隆豊、詞をそろえ申さるるは、敵国へはるばる踏み越し雲州へ至る事、その意を得ず候。安芸備後を攻め取り、降人は人質を取りてこの山口ヘ引き取り、それより石州一国をよくよく切り治め、しかる後、12追手(おうて)、13搦手(からめて)を赤名、神西の両城と定め、出雲国中へ攻め入られ候てこそ、糧道は自由にて跡(後)に恐るる敵もなく…………

ということになった。

 永禄元年(1558)は毛利元就が出雲へ攻め入る形勢が見えた時である。尼子方は富田城中で評議した。このとき亀井能登守は次のように説いた。

  ……何の道、門田、高野山等の押えには、三沢、真木の人々、山内、三吉等の押えには、赤穴右京亮に寵城させ、銀山、羽根ロは神西三郎左衛門を城地堅固に守らせ、三瓶山口にたしかなる押えこれ無く候間、本庄が勢を分け、半ばは彼が居城に置き、半ばは経光自身に引率し、須佐の高櫓の城を暫(しば)し守らせ………

 このように敵も味方も神西城を主要な城と見ていた。

 『雲陽軍実記』に、「すべて尼子旗下にて、禄の第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六は高瀬、第七は神西、第八は熊野、第九真木、第十大西なり。これを出雲十旗といふ」とある。

 これで神西家の地位を各方面から述べ終えたことになる。

 【注】1椹=「あてぎ」と読む字であるが、ここの意味はよくわからない。2成敗=下知とか命令の意味で、幕府の命令に従っての意味か。3沙汰致す=達しをする。しらせる。4牢籠=こむること。5本領職(式)の事………=代々相伝の、もとからの私領、財産を持っているが、これは少しもいいかげんにすることができない。6身上=生命、いのちのこと。7又の者=他の人、ほかの人の意味。8家督=相続すべき家の跡目、または戸主の身分に付属する権利、義務、財産。9支証=争論のときに出す証拠。19宗徒の者=おもだった者。11手負ひ=負傷したもの。12追手=敵を正面から攻撃する軍勢。13搦手=敵を背面から攻撃する軍勢

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